インドの人気観光スポットをご紹介!おすすめ観光スポットをランキング形式でまとめました!インド旅行のコースを計画するためおすすめ観光スポットを探している方は、ぜひともこのランキングをご参考になさって下さい。人気の名所をご紹介します! そして独立を達成した後、インドは憲法制定議会によって自らの手で 正式な憲法の制定に取り掛かった。そうして約3年の議論の結果、 インドは植民地色を残したインド国王や総督といったポストを廃止し、 共和国となることを選んだのである。 1nu=1インド・ルピー=約1.52円(2020年1月9日現在) 13 外国直接投資純流入額 現在でも特にマガダ国のあったジャルカンド州は有数の鉄鉱石産出地で、インドとしても鉄鉱石の生産は世界一です。 この時代商工業も発達し、貨幣経済が進展していきました。 インド大反乱の3年前、国王が病死するとジャーンシーは東インド会社に併合された。 世継ぎがいないという理由だったが、実際は王の死の直前に養子を迎えていた。 ナマステ! 西遊インディアの岡田です。今回はインド最大の都市・ムンバイの歴史と主要な観光地をご紹介いたします。 古くは16世紀からポルトガル、そしてその後はイギリスの植民地として外へ開かれ、自由な空気の漂う … "インドの商業と娯楽の中心地:ムンバイ" の続きを読む 現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。 インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でgdpの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。 ニュルタム(nu) 12 為替レート. インド国王 の銘がある碑 ... 長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉苗が育ったものです。 現在は、切株だけが本殿の裏に移され保存されてます。 仏教はインドで始まった教えなのに、現在、インドではあまり残っていません。そんなにすばらしい教えなら広まるでしょうに、なぜインドで衰退してしまったのでしょうか?2つの理由があります。 北インドでかつて栄えたアワド藩王国(1724〜1856年)──その王族の末裔だという一家が、インドの首都デリーの廃屋となった遺跡に暮らしていた。森の中で隠遁生活を送る彼らの正体は謎に包まれ、40年もの間、世界各国のメディアが彼らの真の姿を明らかにしようと取材を続けてきた。 南インドのヴィジャヤナガル王国では国王が死ぬと4~500人の後宮の女性が王の死体とともに荼毘に付されたという。 ムガル帝国の アクバル帝 は、たびたびサティ禁止令を出しているが、根絶出来なかった。 インド(ヒンディー語: भारत、英語: India)[注 2]またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India)[注 3]は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)、最大都市はムンバイ。, 西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。, インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。, 1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。, インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第2位の人口を持つ国である。13億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。総人口は2020年代に中華人民共和国を抜いて世界最大になると国際連合により予測されている[2]。, 南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラデシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。, インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。, 初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。, 2017年、インドの経済は名目国内総生産(GDP)において世界第7位であり、購買力平価(PPP)では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04パーセントである。ヒンドゥー教徒が最も多く、ムスリム(イスラム教徒)、シーク教徒がこれに次ぐ。カースト制度による差別はインド憲法で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層(1人1日消費額:2~20ドル[2005年PPPベース])が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている[3]。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5,000ドル以上35,000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している[4]。, 連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は約9億人である[5]。, 州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1,000人[2017年])[6]を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった[7]。, インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。, バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する。, 英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した[8]。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった[9]。, イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した[10]。ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする[11]。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[11]。近代になって、西洋語の India に音の近い「印度」、または日本ではそれをカタカナ書きした「インド」が使われるようになった。, 1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている[12]。, 紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。, インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。, 前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年頃に始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年頃、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット語: पाटलिपुत्रः、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年頃にディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年頃、カリンガ戦争でカリンガ国(現・オリッサ州)を併合。この頃、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年頃、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。, ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。, これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。7世紀前半頃、中国の唐から玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の仏教経典を故国へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア各地のパガン仏教寺院、アンコール仏教寺院、ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。, 11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。一方、南インドでは、10世紀後半頃からタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には中国(当時は北宋)との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。, 13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。, 14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後にムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。, 14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。, 16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。第3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、大6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国、メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国(1686年滅亡)とゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。この頃、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。, アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。, ヨーロッパ諸国が大航海時代に入り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年 - 1961年)を築いた。, 1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 - 1869年)を獲得。1623年のオランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。, 一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権、Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した[13]。, 1833年、ベンガル総督は、その職にあったウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称された。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン(英語版)がカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始した。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われ、三角貿易体制が形成された。そしてこの頃にタタ財閥やバンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。, インド大反乱(1857 - 1858年)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡させた(1858年)。その後、旱魃によるオリッサ飢饉、ラージプーターナー飢饉、ビハール飢饉(英語版)、大飢饉(英語版)が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。, イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ(英語版)」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。, イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。, 1905年の日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年に始まった第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして、英印軍が参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。, 1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。1930年には塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。, 1939年に始まった第二次世界大戦においてはインド帝国はイギリスの支配の元で再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争において、有色人種国家である日本の軍隊が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に大打撃を与えて(インド洋作戦)インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。, 1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。インドの民衆に伝わると国民的反発を各地で呼び、大暴動が勃発。インド独立運動の本格化につながった。さらに1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こった。インドの首都デリーの中心部にはインド国民軍を指揮しインパール作戦を戦ったインド独立の英雄として、かつての英国植民地支配の象徴であったレッド・フォートの方角をインド国民軍兵士らを率いて指差しているスバス・チャンドラ・ボースの銅像が建っている[14]。, この暴動を受けてイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンとインド連邦は分離独立した。インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。, 1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。, インドは政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、独立時の英連邦王国から1950年1月26日に共和制に移行した。, 憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、一党優位政党制となっていた[15]。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかなかった。1954年、フランス領インド(英語版)が返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻(英語版)が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年に中印国境紛争が勃発し、アクサイチンを失った。, 1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリーも1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った[16]。, 東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとはカシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドがともに東パキスタン(英語版)[要リンク修正]を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立や米国ニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定でバングラデシュ独立をパキスタンが承認した。, 1974年5月18日、核実験(コードネーム「微笑むブッダ」)が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。 タイのワチラロンコン国王の「奇行」について、JBpressが伝えている。元ストリッパーとされる妻を人前で裸にさせる映像が流出するなどしている。 「ポロス・古代インド英雄伝」はインドのドラマ。歴史上の人物ポロス王の一生が描かれます。でもインドの歴史は日本人にはほとんど知られていません。そこでドラマに出てくる人々について簡単にわかりやすく紹介します。 ネタバレ要素も含まれているので先の イギリス領インド帝国は「イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」と呼ばれるようになります。 インドの歴史をわかりやすく解説!独立と近代化 インドがイギリスから独立するうえで重要な役割を果たしたのが、「インド国民会議派」です。 (1)輸出 インド,バングラデシュ,イタリア,オランダ,ネパール,ドイツ (2)輸入 インド,韓国,中国,シンガポール,タイ,日本; 11 通貨. !』にてインド映画が紹介されたり、番組出演者が自ら主演する企画があった。以後、日本でインド映画が上映される機会が多くなった[要出典]。, インドはデリーで、1951年アジア大会と1982年アジア大会を開催し、また2010年コモンウェルスゲームズを開催している。, クリケットはインドで圧倒的に一番人気のスポーツである[93][94]。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。ナショナルチームのインド代表は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップで2度の優勝(1983年、2011年)、ICC T20ワールドカップで1度の優勝(2007年)、ICCチャンピオンズトロフィーで2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。インド・クリケット協会(Board of Control for Cricket in India, BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。またトゥエンティ20ルールのプロリーグであるインディアン・プレミアリーグ(IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。インドを代表する歴代の選手では、『クリケットの神様』とも評されるサチン・テンドルカールが挙げられる。その高い功績からマザー・テレサも受賞歴のあるバーラト・ラトナ賞をスポーツ界の人物として初受賞した。ランジットシンジ、スニール・ガヴァスカール、カピル・デヴ、ラーフル・ドラヴィド、マヘンドラ・シン・ドーニも歴代のインドクリケット界を代表する選手である。ヴィラット・コーリは現在のインドを代表する選手であり、ナショナルチームの主将も務める。コーリはスポーツ界の枠を越えたスーパースターであり、インド映画のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い著名人に選出された[95]。2019年のESPNの調査によると、コーリは世界で最も有名なスポーツ選手トップ10の一人である[96]。, インドの国民的スポーツはイギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーで、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金が8個、銀1個、銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年よりプレミア・ホッケーリーグがあり、テレビ中継が開始されている。, 北東インド、ベンガル、ゴア、ケララではサッカーも大変人気で、ナショナルチームは南アジアサッカー選手権で何度も優勝している。, 2007年には、プロサッカーリーグのIリーグが、2014年には同じくプロサッカーリーグのインド・スーパーリーグがそれぞれ発足した。, 2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まっていき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。その後、2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤが、インド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。, インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー(kho kho) 、ギリ・ダンダ(Gilli-danda)なども全国で広く競技されている。またインド南部ケララ地方古来の武術[要曖昧さ回避]であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライも行われている。, 2008年に開かれた北京オリンピック・男子エアライフルでアビナブ・ビンドラーが優勝、個人競技で初めての金メダルを獲得した。, インドは5000年の歴史があり、今に残る数々の歴史的遺跡の文化遺産や多様に富む自然と野生動物とさまざまで数は多い。2016年のインド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が27件、自然遺産が7件、複合遺産が1件の計35件存在する。なお、インドの世界遺産には暫定リスト記載物件が44件ある。, このほか、各州によって祝祭日が設けられている場合があり、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭礼日がある。各企業では法律上の3日を含めて年間10日程度の休日を設けているが、どの日を休日にするかは一律でない。またヒンドゥー教に由来する祭日は太陽暦ではなく、インド特有の太陰太陽暦に基づいており、太陽暦上では2週間程度前後する。各地域で休日とされる日程のうち太陽暦に準拠する日は3回。, またキリスト教の Good Friday(3 - 4月)も休日として扱われる。この結果、一つの会社内でも本社・支店・工場で休日が異なることが多い。8月のクリシュナ祭がデリー本社は休日だがムンバイ支店は営業日で、ガネーシャ祭は逆になるということが起こる。, 座標: 北緯21度 東経78度 / 北緯21度 東経78度 / 21; 78 (インド), 語学教育は最近のIT産業勃興につながっている。ただし、効果を発揮するのは農業が持ち直して人的損害を免れるようになってからである。, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p220-221, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p226, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p228, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p284, 「長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p237, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p240-241, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p242, 長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社 2019年3月30日1版第1刷発行)p244, Government of India [planningcommission.gov.in/plans/planrel/12thplan/welcome.html Twelfth Five Year Plan 2012-17], 「インドのモディ首相、パキスタンでの首脳会議出席を拒否 カシミールのテロで関係緊張『産経新聞』2016年9月28日, 井上恭子「人口増加率・識字率・男女比の地域差が示すもの」/ 広瀬崇子・近藤正規・井上恭子・南埜猛編著『現代インドを知るための60章』(, ビハール州ナーランダーのナーランダー・マハーヴィハーラ(ナーランダ大学)の考古遺跡, https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/iryou/downloadfiles/pdf/countryreport_India.pdf, https://jp.reuters.com/article/india-election-idJPKCN1RM0YM, https://www.sipri.org/sites/default/files/2019-04/fs_1904_milex_2018.pdf, http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/1110cxVuiEg.PDF, http://indiacode.nic.in/coiweb/amend/amend42.htmー1947年にイギリスから独立して以来、インドは, World Gazetteer: India - Metropolitan areas 2008 calculation, http://www.economist.com/countries/India/profile.cfm?folder=Profile%2DEconomic%20Structure, http://www.economist.com/displaystory.cfm?story_id=S%27%298%3C%2FPQ%3B%21%21P%214%0A, 『アウトソーシング大国、インドの岐路』2007年8月24日付配信 日経ビジネスオンライン, ICICI Bank, SBI, StanChart Top Bank Frauds List, Says Reserve Bank Data, https://www.businessinsider.jp/post-167855, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28006520S8A310C1FFE000/, Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister, http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/visit/0810_ahks.html, “The Rise and Fall of Hindi Chini Bhai Bhai”, http://foreignpolicy.com/2014/09/18/the-rise-and-fall-of-hindi-chini-bhai-bhai/, http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3015840.stm, http://www.chinadaily.com.cn/china/2006-07/06/content_634253.htm, “China is now India's top trading partner—and one of its least liked”, https://qz.com/183134/china-is-now-indias-top-trading-partner-and-one-of-its-least-liked/, http://www.emeye.jp/disp%2FOWA%2F2012%2F0911%2Fstockname_0911_007%2F0%2F1/, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51212840R21C19A0EAF000/, http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1380230, http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=516768, Census of India: Comparative speaker's strength of Scheduled Languages-1951, 1961, 1971, 1981, 1991 ,2001 and 2011, http://www.censusindia.gov.in/2011census/C-17.html, Searching for Sanskrit Speakers in the Indian Census, The Myth of 'Sanskrit Villages' and the Realm of Soft Power, https://www.thehindu.com/news/national/where-are-the-sanskrit-speakers/article6299433.ece, 現代教養学科ブログリレー フフバートル:多民族・多宗教・多言語国家インドの言語問題, IPL only third-most popular cricket event in India, international competitions more favoured, survey reveals, Virat Kohli tops powerful celebrity brands list with a brand value of $170.9 million, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=インド&oldid=82908725, Pongal பொங்கல்/Makara Sankranti मकर संक्रांति, 1947年3月、デリーでアジア問題会議が開催され、新生のアジア諸国が直面視する諸問題が討議された。. ──現在、ブータンとインドはどのような関係にあるのでしょうか? ラトランド 1947年から2007年まで、インドはブータンの外交指導権を持っていましたが、ジグメ・シンゲ・ワンチュク第4代国王の治世に、新たな条約が締結されました。 1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義[17]共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった[18]。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた[19]。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したため平和維持軍(英語版)を派遣した。, 1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た[20]。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラの自爆テロでラジーヴも暗殺された。後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化(英語版)によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた[21]。1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドがヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった[22]。, 1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。, 1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ」を突如実施。核保有国であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された[23]。, 2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した[24]。同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。, 2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。, 連邦下院の総選挙が2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した[25]。一方、最大野党インド人民党(BJP)は116議席にとどまった。, 2014年5月開票の総選挙ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した[26]。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。, パキスタン、中華人民共和国(中国)、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。, 中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州とシッキム州北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部、マニプル州、ミゾラム州、ナガランド州東部と接している。, インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロメートルの海岸線を持つ。多くの地域では雨季が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インドと中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。, インドの発展が遅れた主因は水不足であった[27]。インド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州や西ガーツ山脈では1万ミリメートル以上であり、シンド州の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は、灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す[28]。, 広大な国土を持つため、地域により気候は大きく異なる。雨季には大きな洪水が発生するほどの豪雨がある地域も多い[29]。2016年5月19日には西部ラジャスタン州ファロディで最高気温が51℃を記録し、1956年に同州アルワルで観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6℃を60年ぶりに更新した[30]。地球温暖化の深刻な影響により、今後数年でインドの相当部分について、夏の気温・湿度が人類にとって居住不可能なレベルになる可能性が2019年に指摘された。, バラナシやタージマハルのあるアーグラーが属する北インド平野では5月が最も気温が高くなり、45℃を超すこともある。3月下旬から9月下旬までは厳しい暑さが続き、特に4月から6月は酷暑となる。7月から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月中旬から1月下旬にはショールが必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州エリアは典型的な砂漠気候で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月頃は特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい[29]。, 南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20℃超、普段は30 - 35℃程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生してムンバイのような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インドでもベンガルールは標高が800メートルある高原であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まるIT都市として発展したほどである[29]。, コルカタや東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40℃近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある[29]。, 年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い[29]。, 冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラーやダージリンは他地方が酷暑の時期に避暑地となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い[29]。, インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法は1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。, 国家元首は大統領。実権はなく、内閣(Union Council of Ministers)の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。, 副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。, 行政府の長は首相(Prime Minister of India)であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。, 議会は両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。, 上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians、イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。, インド軍は、インド陸軍、インド海軍、インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府(Government of India)のトップ(政府の長)である首相(Prime Minister of India)が有している。インド軍の管理・運営は国防省(Ministry of Defence)・国防大臣(Minister of Defence)が担当する。, インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5,000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事組織は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別辺境部隊(1万人)である。以前は準軍事部隊とされた国境警備部隊、中央予備警察などを含む中央武装警察隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。, グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願兵制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度もない。, 近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM、SLBM、戦略爆撃機(後述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。, チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてインド宇宙研究機関(ISRO)による5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した[31]。, 2013年11月5日、最初の火星探査機打ち上げに成功した[32]。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている[33]。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった[34]。, インドは28の州と8つの連邦直轄領、およびデリー首都圏(National capital territory of Delhi)から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール連邦直轄領、ラダック連邦直轄領はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、アルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている[35]。, インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる(詳細)。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 - 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率を達成している。, インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。, 貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が国内総生産(GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維などである。輸入は原油・石油製品、金、機械製品などである。, インドのGDPは2021年には2.8兆ドルであり、世界で6番目に大きな経済になります。 また、インドのGDP PPPは8.6兆であり、米国と中国に次ぐ3番目に大きな経済になります。, 2030年代には15億人を超え、中国を抜き世界一の人口となる見込みであるが、2050年には16.6億人になると予想されている[37]。, 農業をはじめとする第一次産業は世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった[38]。米の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万ヘクタール あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が経済成長率に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。, 農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たないは零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の経済連携協定であるRCEP交渉から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した[39]。, 穀物収穫面積の約4割が水田であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 - 2013年に世界一を記録した[40]。小麦も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない[41]。2003年時点で砂糖、魚介類、野菜・果実は完全自給できている。大豆の自給率が96パーセントであった[42]。綿花は植民地時代からデカン高原で栽培されており、糸車をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶も同様である。鶏卵生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏は国内需要の高い鶏肉の生産量を向上させている。インドでは牛が宗教上神聖な動物とされており、牛乳の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった[43]。カシューナッツ、マンゴー、ココナッツ、生姜、ウコンと胡椒、ジュート、落花生なども生産している[要出典]。, 現在の地位を築くまでは大変な苦労があった。旱魃は灌漑が不十分であれば国民の命を大量に奪う。灌漑はムガル帝国時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、アスワンダム建設に経験が活かされた[28]。, しかし、1937年のビルマ分離で食料輸入国へ転落し、また1947年にパンジャーブのパキスタンが分離独立して、インド農業は四肢をもがれた格好になった。以後1950年代までは、英米資本がタタ自動車などの製造業と、証券会社オペレーター養成に向けた英語学教育とを中心に投下され、農業は置き去りにされた[注 4]。, 1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 - 2000年の間に化学肥料の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナーという北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない[44]。, デルタが多いベンガル地方は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラのパンデミックの震源となった。カルカッタは西のフーグリー川と東の塩湖に囲まれ、かつては海抜10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった[45]。, 鉱業は後述の化石燃料のほか、インド・ウラン公社がウランやトリウムを採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される[46]。現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。, インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした[47]。経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている[48] 。, 製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープやバジャージ・オート、ホンダなどが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、タタ・モーターズ、マヒンドラ&マヒンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーのほか、スズキやルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。造船、航空機製造も成長の兆しを見せている。, 石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な天然ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGCが国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。, 製薬産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。, IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドはアフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。ソフトウェアや金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。, 近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、インド工科大学やインド科学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。, 1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[49]。, 当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティングなどの高度なサービス提供によって差別化を図っている[49]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[49]。, こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[49]。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[49]。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている[50]。, 小売業は大型店や電子商取引も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める[51]。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。, 医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの医療観光ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。, 他の部門ではバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、通信、観光が高成長の兆しを見せている。, インド金融制度の腐敗は独立以前から欧州資本により進んでいたが、1991年からの機関化で加速している。現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad MehtaとKetan Parekh、金融インフラSatyam スキャンダル、Chain Roop Bhansali[52]のミューチュアル・ファンド、複合企業主のSubrata Roy、Saradha Group の金融スキャンダル、NSEL をめぐる金融犯罪、石炭割当をめぐる政治スキャンダル、2G周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズに募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着[53]。そして700のインド系銀行がHSBCジュネーブ支店に総計600億ルピーを隠匿した。, 2016年4月から12月にかけてインド準備銀行が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行が最大件数となり、SBIホールディングス、スタンダード・チャータード銀行、HDFCが順に続いた[54]。この期間にプラチナ・パートナーズという法律事務所の金融犯罪が暴露されていった。ここの顧客には、ディアジオ(グラクソ・スミスクラインとジョイントベンチャー)、ノバルティス、ダノン、ブラックストーン、MTNグループ、野村証券、マイラン、ピアソン、ドイツテレコム、BTグループなどがいる。また2017年でなおポンジ・スキームが摘発される(醜聞一覧)。, 2004年から高度成長期に入り、金融腐敗が進む2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 - 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった[55]。, 電力の供給能力は機関化による経済成長に追いつけず、日常的に停電が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。, インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の大気汚染が起きており、2018年時点で世界保健機関によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである[56]。大気汚染対策として二輪車および三輪タクシーなどの電気自動車化を推し進めている[57]。インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合(EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。, 加えて同国における独立系の反汚職組織の調査で過去1年の間、賄賂を支払った経験があるとする国民が全28州のうち20州で19万件も存在することが判明しており、少なくとも2人に1人の割合になるとの調査報告書が公表されている[58] 。, また衛生面でも課題が多い。トイレを持たない家庭も多く、政府は屋外排泄行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている[59]。, カシミール地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)、現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領となっている。, これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は、中国との間で中印国境紛争があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。, 近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。, 1903年に日印協会が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。, 1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある[60]。, 広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどである。また、1970年代頃からは、日本プロレス界でインド出身のタイガー・ジェット・シンが活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。, 2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。日本政府は「価値観外交」を進め、2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された[61]。日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日 - 26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。, 2011年8月1日に日本・インド経済連携協定が発効した。2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された[62]。2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した[63]。, 17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。, イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。, しかし、非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。, 第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。, インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスター、レスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。, インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。, 冷戦期は中立非同盟路線(実態はソ連寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。, また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。, 一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって?
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